我が紀行


    浜松城は15世紀頃の曳馬城が始まりで、16世紀前半には今川氏配下の飯尾氏

が城主であった。今川氏の衰退により、徳川家康の支配下に入り、岡崎城を嫡

男信康に譲り、浜松城を本拠とするところとなった。武田信玄との戦いで、武

田軍の挑発にかかり、誘い出された家康は武田軍の巧妙な反撃に会い、命から

がら浜松城に逃げ込んで、後の本能寺の変の際の伊賀越えと並んで人生最大の

危機を経験した。この時の慌てふためいて落ち込んだ姿を絵に描かせて、軽挙

妄動を慎んだと言われる。その後は逆に武田軍に警戒心を煽り城内に攻め込む

のを諦めさせる策略を弄して、引き上げさせた。いわゆる三方ヶ原の戦いの一

説である。  城の拡張、改修は16世紀後半には終わり、在城17年間で、駿河に本拠を移し

た。その後、豊臣秀吉の家臣が11年間在城したが、以後徳川の家臣が次々に移

封され、水野忠邦のようにこの城を経て老中にまで出世した者が多かったので

「出世城」と言われた。右の写真は浜松城天守門前広場にある家康の若かりし

ころの立像である。 作り、海藻を頭に被ってオドロオドロしい踊りをして見せて、太鼓を打ち鳴ら

しながら大音声を発して脅かして退散させたという故事に発している。上杉勢

は思いもよらぬ陣太鼓と奇怪極まる怪物の夜襲に驚愕して退散したと伝わる。

村人たちは名舟沖にある舳倉島の奥津姫神のご神徳によるものとし、毎年奥津

姫神社の大祭に仮面をつけて太鼓を打ち鳴らし神輿渡御の先駆を務め、氏神に

感謝を奉げる習わしとなって現在に至っている。



 白米千枚田(しろよねせんまいだ)は輪島市白米町にある棚田で、日本海に

面して、小さな田が連なり海岸まで続く絶景は、日本の棚田百選、国指定文化

財名勝に指定されている。水田1枚の面積は平均18uと小さくて、約4haの中

に1004枚の棚田が展開する。「日本の原風景」と言われ、日本で初めて世界農

業遺産に認定された。機械化農業が不可能な昔ながらの農法が維持されている。

棚田の、水面に浮かぶ早苗の初夏、黄金色に染まる稲穂の波がいつまでも続く。



 道の駅珠洲塩田村(写真右)で、輪島塩を作る揚げ浜式製塩が行われている。

朝早く海水を汲み上げ、600リットルを桶に溜め、約40分間に塩田1枚約50坪に

均等に撒く。夏季はこれを2度繰り返す。これを朝6時までに終えて、8時間

程度太陽にあてて乾燥する。これを塩田の中央に集め、底に竹とむしろを敷い

た組み立て式木製の箱に入れ、海水を流し込み、砂に付いていた塩の結晶を箱

の下部の溜池に溜め、このかん水を釜屋(写真左)に運び、釜焚きをし、塩分濃

度24%になるまで煮詰め、一日程度冷まして、竹炭、黒炭、砂でろ過して、16時

間程度煮詰め、釜の表面にできた結晶が「とんがりぼうし」の形になったら、火

を止めて、20〜30分程度余熱を加えて本焚きが終わる。この塩を釜から取り出

し、塩床に4日間寝かせて、底の傾斜路から苦汁(にがり)を分離する。更に選

別所で丁寧に不純物を取り除き完成する。約600リットルの海水から120sの塩が

とれ、この地域の豊かな海の恵みで塩辛さがなく甘みが口の中に広がる優れもの。





 七尾市の能登島ガラス美術館は海を望む高台にあって、ガラス芸術の発信基

地を目指して設置され、広々とした屋外に左右の写真のような色とりどりのガ

ラス美術品が並び、前衛的な美術館などの建物もインパクトがあり、合わせて

美しく配置されている。美術館内にはピカソやシャガールなど巨匠の原案に基

づく作品や中国清朝の美しいガラス美術品など現代の近未来的な展示がされている。



 富山城は当時の神通川(現在は流れが変わって松川)を城の防御にして築城

  したので水に浮いたように見えたため「浮城」とも言い、滝廉太郎の「荒城の

月」の着想の元になった城の一つと言われる。室町時代の守護代神保氏が築城

したが、上杉謙信と織田信長との争いに巻き込まれて失脚し、信長が佐々成政

を封じたが、豊臣秀吉に攻められ、城は破却された。秀吉が越中一国を前田家

に与え、前田利長が大改修したが焼失し、城代が治めていた。江戸時代に入り、

加賀藩第三代藩主前田利常が次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成

立した。当初富山城は加賀藩領であったが、利次の領地と交換して富山藩領と

し、幕府の許しを得て本格的に修復し、城下町を整え、以後、富山前田氏13代

の居城として明治維新を迎えた。しかし、安政の飛越地震で富山城は大被害を

受け破損し、廃藩置県で廃城となり、焼失したり解体されたり、堀も埋め立て

られ、米軍の空襲で爆撃の中心にもなった。昭和29年に富山産業大博覧会が開

催され、鉄筋コンクリート構造の模擬天守が記念に建てられ、「富山城」と呼

ばれるようになった。現在、富山市郷土博物館になっている。







 越中八尾曳山展示館は八尾曳山祭の様子が見学できる。5月3日の江戸時代

中期より続く八尾八幡社の春季祭礼で、獅子舞、神輿、曳山の順に巡行する。

曳山(写真左)は寛保年間に上新町が花山車を製作し在原業平の人形と役者を載せて練り

回したのが起源とされ、他の6町も順次製作して参加し、現在に至っている。

6基(写真右)の曳山が三味線、横笛、太鼓で十数種類ある曳山囃子を演奏しながら、揃

いの法被を着て渡御し、日中は曳山の引綱に子供達も繋がって引っ張る。夜は

提灯山(写真左)となって町々を明るく照らして夜半まで引き回される。曳山は当時の名

工が手掛け、彫刻、漆工、彫金、金箔などを纏って絢爛豪華で、曳山内で演奏

されるお囃子は、良質な蚕種の販売が全国の4分の1のシェアがあったとされ

る養蚕業(蚕種・生糸)と富山の地方への薬売りの包紙などに使用される八尾

和紙で豊かな財力を誇り、江戸時代には富山藩の財政の多くを支える「富山藩

の御納所(おなんどころ)」と呼ばれ、このような裕福な旦那衆によって作り

あげられていったもので、おわら風の盆(写真右)とともに八尾町民文化の繁栄の証であ

り、誇りとなっている。6基の曳山は「八尾町祭礼曳山」として富山県有形文

化財に指定され、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定さ

れ、八尾町曳山保存会が「地域文化功労者文部科学大臣表彰」を受けている。







 母校山梨県立日川高等学校は明治34年(1901年)甲府市に山梨県第二中学校

として開校し、翌年山梨市の現在地に新築移転した。初代校長は長州今の山口

県の出身で、札幌農学校でクラーク先生に学んだ中川太郎先生(写真左は校舎

前庭にある胸銅像)で、Boys be Ambitious をはじめ、To Cultivate Your Own

Mind(あなた自身の心を耕し育てよ)を教訓として後世に伝えている。山梨県

に2番目の旧制中学校の初代校長として朝ドラの「西郷どん」に見られるよう


に長州出身者が時代の先頭を走っていたことが想像される。11月3日の同窓会総

会の際、高校9回卒の同級生が20歳も若い現職校長の案内で現在の校舎を見学

した。各階に冷暖房完備、机の横にそれぞれ仕切りがあり、卓上LEDランプ付の

素晴らしい自習室があって、事前に席取りはしないことという注意書きがあった。

今の生徒は幸せだなあと感心した。写真右は同窓会の最初に行われる厳かな校

旗入場の場面である。勿論学帽は例のよれよれ切れ切れの誇り高き伝統のもの。





 成田山新勝寺(写真左は本堂)は、平安時代中期平将門が親族間の争いに勝利し、上野、下野

など関東全般を支配するに至り、新皇を僭称し、朝廷に反旗を翻すこととなり、

  朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が弘法大師空海の彫刻開眼した不動明王を

奉じて房総半島に上陸し、成田の地で護摩を焚いて戦乱の鎮まるのを祈願した

ところ、平将門が討たれ、平和が訪れた。寛朝大僧正が都へ帰ろうとすると不

動明王の尊像が盤石の如く動かず、この地に留まるようお告げがあった。ここ


に成田山新勝寺が開山された。成田山の節分豆蒔きには毎年大河ドラマの出演

者が参加するが、昭和51年の「風と雲と虹と」の時は参加を取りやめている。

 歌舞伎役者初代市川團十郎が成田不動に帰依し たところ、子が授かり2代

目団十郎を襲名したことに始まり、7代目も男の子に恵まれなかったのを祈願

して授かり、8代目を継がせるなど代々成田山に帰 依して成田屋を名乗っている。

写真右は成田山の三重塔(国の重要文化財)




 アサヒビール茨城工場(写真左は構内風景)を見学した。「スーパードライ」は日本初の辛口ビー

ルとのこと。ホップの雌花に付いている「ルプリン」という小さな黄色い粒が

ビールの苦みや香りの元になる。ホップにもいろいろの種類があり、ビールの

銘柄によりホップの使用種類・比率が異なる。ビールの色は麦芽の色で決まる。

黒ビールは麦芽をロースターで煎ったり(ロースト)、熱風で乾燥させた(焙

燥)濃色麦芽を使用する。ローストや焙燥の度合いにより濃色麦芽の色と香り

が異なる。この工場の1日の生産量は大瓶換算で約370万本、50mプール4つ



分になる。発酵熟成タンクの高さは約20m、タンク1本で500KL、350ccの缶ビ

  ールに換算すると約143万本、毎日1本づつ飲んでいくと約4000年かかるという。

鮮度を保ち品質の高いビールを造るため、各工程で酸素の侵入を最小限に抑え

るために、釜から釜への麦汁の移動は、すべて底の配管を使い、静かに移し替

えている。うまいビールを届けるため、機械での品質チェックのほか、選抜試

験に合格した専門家が実際にビールを飲む官能検査を行っている。検査は、味

覚が研ぎ澄まされる空腹時などに行っている。写真右は広大な工場の内部。



   仙台の青葉城(写真左)は、鎌倉時代末期に千体城、後に千代城といい、戦国時代末期

には城主である伊達政宗の叔父である国分盛重が政宗と対立して出奔し廃城と

なった。政宗は関ケ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すこ

とにして、地名を仙臺(新字体:仙台)に改めた。この地は広瀬川とその下流

名取川を経て閖上などの港から太平洋に通じていたことが要所であった。この

城は山城であり、要塞堅固であったが、世が泰平になると山上への往来が不便

であったので、2代目忠宗が平坦な場所に二の丸を造営して政務の中心になっ

て、平山城となった。天守は造営されなかった。



 伊達政宗は戦国時代末期米沢城で伊達氏16代輝宗の嫡男として、正室である

山形の最上義守の娘・義姫から生まれた。幼時天然痘により右目を失明して、

隻眼になり、独眼竜と言われるようになった。弟の小次郎を斬殺した毒殺未遂

事件は兄の教唆による母親の政宗毒殺未遂か、反政宗派一掃のための狂言説か

謎に包まれている。17歳の時に父輝宗の隠居に伴い家督を相続して、17代当主

となる。20歳の時に、関白豊臣秀吉から関東・奥羽の諸大名に惣無事令(私戦

禁止令)が達せられたが、無視して周囲の勢力と戦争を続け、福島、岩手、宮



城などが政宗の勢力下になっていた。秀吉の小田原征伐のとき逡巡したが、服

属した。これで秀吉の天下統一が完成し、以後政宗は米沢城72万石から宮城県

北部の岩出山城58万石に減転封された。秀吉の朝鮮攻めに参戦したとき、京都

を通過し、その時の派手な軍装に「伊達者」と呼ばれるようになった。関ケ原

の戦いは東北各地の争乱にいろいろの手を使ったが、最終的には62万石で加賀・

前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ第3位の地位を得た。居城を仙台に移し、政宗を



藩祖とする仙台藩が誕生した。政宗はイスパニアとの通商を企図して、遠洋航

海帆船・サン・ファン・バウティスタ号を建造し、家康の承認を得て家臣支倉

常長ら一行180余人をメキシコ、イスパニア、ローマに派遣した。大阪冬の陣

では和議成立後、外堀埋め立ての任にあたった。夏の陣では道明寺の戦いに

参加し、真田幸村隊との駆け引き、天王寺の戦いで明石隊との駆け引きで、

戦後の論功行賞で伊予の国の一部10万石が政宗の庶長子・伊達秀宗に与えられた。




 徳川幕府により世の中が平穏になると、領国の開発に力を入れ、貞山堀と呼

ばれるようになった運河を整備した。北上川水系の流域を整理開拓して、現代

まで続く穀倉地帯とした。これにより仙台藩は表高62万石に対して内高74万5

千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。桃山文化の荘厳華麗さに北

国の特性も加味した様式を編み出して瑞巌寺を始めとする国宝建築物を残した。

北上川の河口に石巻港を設けて、仙台米が江戸に輸出され、江戸の米の三分の

一は仙台米だと言われた。徳川秀忠、家光と仕え、「命令に背くものあれば、

政宗めに討伐を仰せ下され」と申し出て、参勤交代を支持し、家光は御三家に

も許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。




政宗は食道癌で江戸上屋敷で死去。束帯姿で木棺に納め、駕籠に載せて、生

前そのままの大名行列で仙台へ戻った。生前城下を散策したとき、経ヶ峰に

杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。そこが現在の瑞鳳殿(写真上左)である。

嫡男忠宗に相続が許された。2代目忠宗の感仙殿(写真上中)、3代目綱宗の善応殿(写真上右)が瑞

鳳殿に対置されている。4代目以降は伊達家墓所に埋葬されている。瑞鳳殿近くに例外的に

埋葬されているものもある。善応殿の写真は正面段差のため斜め前方からしか撮影できない。





瑞鳳殿と感仙殿は戦前に国宝に指定されたが、善応殿と3殿すべて戦災空襲で

焼失した。戦後3殿とも発掘され、3者の頭蓋骨をはじめ埋葬品が発掘保存さ

れている。その頭蓋骨から生前の容貌を復元した。写真左から、初代政宗、2

代忠宗、3代綱宗である。瑞鳳殿は昭和54年、感仙殿と善応殿は昭和60年に再建された。





 五大堂は日本三景の一つ松島の景観上重要な建物(写真左)であり、本州海岸に近接する小島に建つ。

平安初期坂上田村麻呂が奥州遠征の砌、毘沙門堂を建立したのが始まりと言われる。

その後、慈覚大師円仁が瑞巌寺の全身・円福寺を創建した際に仏堂を建立し、大聖不

動明王を中央に、東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉

明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。現在の堂

は伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した。(写真右)東北地方最古の桃山建築と言われ、

  国の重要文化財に指定されている。この島と本州とは橋で繋がっている。(写真中)本尊の五大

明王像は33年に1回開扉の秘仏で平成18年8月に3日間御開帳された。



 瑞巌寺は正式には松島青龍山瑞巖円福禅寺(写真左は中門、奥は本堂)と言い、平安時代に創建され、天台宗延

福寺と言い、淳和天皇の勅願寺として、慈覚大師円仁が開山したと伝わる。源頼朝が

義経を追討したとき、頼朝のために義経を呪詛したと言う。北條政子が見仏上人にあ

てた手紙と水晶製の五輪塔の形をした仏舎利が伝えられている。この延福寺について

は数々の疑問点があると言う。鎌倉時代、北條時頼が天台宗と確執があり、寺境内の

岩窟(写真右)で修行中の法身性身と密談し、後に武力で天台宗徒を追い払い、法身を住職に据

えた。その後も双方の争いは続いたが、時頼の外護のもと、臨済宗円福寺と名を変え、

建長寺を開いた蘭渓道隆が引き継ぎ、北條氏の保護のもと、関東十刹に昇ったが、火

災によって、戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。江戸時代に入り、伊達

政宗により、禅僧虎哉宗乙の勧めで復興工事を完成させた。桃山様式の本堂などの国

宝建築を含む伽藍がこの時のものである。この時、前述のような寺の名称に改めた。

一時住職が不在であったが、雲居希膺が座について、伊達氏の保護もあって隆盛を極

めたが、明治期に入り、廃仏毀釈の動きが進むと、逆に寺領が没収され、収入を失っ

て窮乏を極め、付属の建物が多く荒廃して失われた。その後、明治天皇東北巡幸の際

に下賜金があってから徐々に財政難を脱した。鰻塚の建立、本堂の国宝指定、重要文

化財指定、大書院の完成、宝物館の開設と進み、平成20年から30年までの平成の大修

理が行われ、落慶法要が営まれて、現在に至っている。(写真左は本堂裏の庭園)境内の2本の「臥龍梅」は伊

達政宗の手植えと言われ、参道には鬱蒼として杉並木があったが、東日本大震災の津

波に見舞われ、その後の塩害で立ち枯れが目立ったため、約300本が伐採された。





 松島は500万年前からリアス式海岸などが複雑な動きにより隆起と沈降を繰り返し、

高い部分が島となり、低い部分は海となって、あのような島々が出現したと言われる。

この地域の大部分の地層は凝灰岩、砂岩、礫岩などの浸食に非常に脆い岩質で出来て

おり、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。多くの小島は松などが生え、海面

に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。さらに波に洗われて鋭角に抉られて

いて、奇岩や海食崖(波が陸地を段々削り取って崖になる)が見られる。松島は八百八

島と言われるが、島々の数は侵食、風化作用を受けて、常に変化しているので、数え

るのが難しい。「松島町史」は国土地理院の地図などを参考に、名称のあるものが144、

無名のものが98と記していると言う。しかし、岩礁を島と数えると約300になるとも附

足している。松島を高い所から広く眺めて見たいと思うが、その絶好の場所が4か所

あると言うが、そのうちの扇谷あたりへ行ってみたが、駐車場が一杯で十分堪能する

ことはできなかった。遊覧船で松島海岸から塩釜まで行って、島々を鑑賞した。

写真右上は絶好の場所、4か所のうち「大高森」、左は「双観山」、いずれもrecruitの写真転載





写真左は仁王島、首のところが折れてしまったのでコンクリートで補強してある。写真

中は鐘島、波が打ち寄せると鐘が鳴るような音がする。写真右は鎧島、武士の鎧のように見える。





  写真左は扇谷から見た福浦島、中は双子島、右は五大堂から福浦島へ渡る福浦橋



  写真左は武士の兜のように見えるので兜島、中と右は松島の島々

 

  写真左と中は松島の島々、右はホテルから見えた松島の夜明け



  写真左はホテルから見えた松島の夜明け、中は松島の島々、右は松島の夕暮れ