平成23年8月18日〜19日に長野県の上高地と松本城へ
行ってきた。上高地は明治以前には地元の人たちしか立ち
入っていなかったが、明治中期になって、ウォルター・ウ
ェストンなどの外国人によって紹介されて、周辺の山々が
日本のアルプスと言われるようになり人気が高まった。
松本城は、姫路城、彦根城、犬山城とともに、古来の天
守閣が現存する限られた城跡である。これ以外はすべて建
て替えられたものであり、ほとんどは鉄筋コンクリートで
エレベーター付の展示を主とする博物館的のものとなって
いる。明治維新の従来の権威を消滅するための城郭破却に
抗して文化遺産の維持に奔走したエピソードが残っている。
平成23年10月19日〜21日に福井県へ行ってきた。気比神
宮は越前一宮にして官幣大社であり、伊奢沙別命(いざさ
わけのみこと)を主祭神としている。「気比(けひ)」は
「食(け)の霊(ひ)」と言う意味で、「古事記」でも「
御食津大神(みけつおおかみ)と呼ばれ食物の神と言われる。
小浜市に明通寺がある。坂上田村麻呂の創建で、本尊は
薬師如来、本堂と三重塔が国宝である。本尊と2仏像を棡(
ゆずり)の木で作ってあるので、棡(ゆずり)山という山号がついている。
若狭湾国定公園を代表する景勝地で昭和9年に国の景
勝地に指定された蘇洞門(そとも)の大門と写真では見
にくいが、小門である。「そとも」の呼称は昔の居住漁
民たちによるものと言われているが、小浜湾側からする
と「外面」であったので、それが源となっていると言われている。
平成23年NHK大河ドラマ「江」の三姉妹のうちの「
初」すなわち「常高院」の墓である。JR小浜線の小浜
駅の西800mの国道27号線を挟んで常高寺と墓がある。ド
ラマ放映中に訪れたので、寺の展示物もドラマの女優たち
の写真で華やかであったし、住職の説明にも一同が一々頷
いて聞き入った。初は京極高次に嫁いだが父浅井長政の姉
の子で従兄妹同士であった。夫に先立たれたので、落飾し
て常高院と称した。寛永10年(1633年)66歳で京極家の江
戸屋敷で死去。夫の菩提と父母等の供養のため建立した常
高寺に埋葬された。7人の侍女と尼僧たちの墓に護られている。
平成23年10月22日〜23日に伊豆へ行ってきた。伊豆の修
善寺である。修善寺と言えば源頼家の悲劇が付きまとう。
建久10年(1199年)父頼朝が急死すると、18歳で家督を相
続して2代将軍となった。当時頼朝在世中は目立たなかっ
たが、流人から始まった頼朝には直参の武力集団が無く、
将軍の実力が希薄で、頼朝旗揚げに参集した御家人間の権
力闘争が激化していた。頼家支持勢力が反支持勢力に滅ぼ
された結果、頼家も重病を機に、当初の政治的処理に反発
されたことも重なって、幽閉され暗殺されてしまった。
弟実朝も暗殺されて、頼朝の系統は抹殺され、北条氏の天下となった。
平成23年11月10日〜11日に鬼怒川温泉と会津南部に行っ
てきた。東武ワルドスクウェアーは一昨年行ったことがあっ
たが、東京に建築中の東京スカイツリーが新しく加わって
いた。写真はエジプトのアブ・シンベル神殿である。ラムセ
ス2世等の像であるが、アスワンハイダムの建設に伴って移転されている。
会津若松と日光を繋ぐ会津西街道沿いに発展した大内宿
である。江戸時代の参勤交代に会津藩、新発田藩、村上藩
や米沢藩が使用するため整備されたものである。本陣や脇
本陣も復元されている。回りが高い山々に囲まれて独立し
た宿場町になっている。廻米道としても重要な役目を果たしていた。
平成23年11月14日〜16日に青森へ行ってきた。午前9時
36分東京駅発新幹線はやぶさ3号は3時間10分で新青森に到
着した。新青森開通でグランクラスに乗って行きたかったが
発売半日で売り切れてしまって、グリーン車に格下げして、
新青森駅に降り立ち、JR発売の駅レンタカーで周遊した。
15〜16日にかけて今季初の雪が降るという予報が出ていた
ので、予定を繰り上げて半日では無理とは思ったが、新青森
駅から十和田湖に行くことにした。レンタカーの係が今夜の
泊りは浅虫温泉だと言ったら少々驚いていた。八甲田から蔦
温泉で蕎麦を食べて、奥入瀬渓流を横目に十和田湖についた。
十和田湖畔に「乙女の像」がある。26日のテレビでこの像
についての特集が放映された。高村光太郎が芸術に行き詰ま
ったときに智恵子が支えになったことを契機に結婚し、智恵
子が病に侵されてからも愛を貫いた。その死後、東京の空襲
で全てを焼失し、岩手の山中に籠って7年の沈黙の後、佐藤
春夫等に推され、十和田国立公園15周年を記念して、華奢な
智恵子を豊満にした同じ裸像を向い合せに2体制作した。
浅虫温泉の宿のロビーで夕食後、津軽三味線の演奏が行われ
た。三味線は中東で発祥した弦楽器が中国等を経て、沖縄の
三線(さんしん)として伝わり、日本で独特の発達をとげ、
新潟の瞽女(ごぜ)や津軽地方のボサマと呼ばれる視覚障害
者たちが門付け(家々に訪れて)演奏して伝わり、高橋竹山
等の芸の向上発展により、現在に至っている。寒風と吹雪と
闘って演奏するため、太棹になり、打楽器のように敲く演奏方法になっている。
青森といえば「ねぶた」であり、弘前には「ねぷた」がある。
ねぶた会館でねぶたを実際に曳いて動かす「曳手」(ひきて)
とねぶたのまわりで跳ねて踊る「跳人」(はねと)の体験を
させてもらえた。「曳手」はねぶたにタイヤの車がついてい
たので、曳くのはそんなに重くなく、「跳人」は片足を上げ
て2度跳ねて、足を替えて2度跳ねるという繰り返しで、ラ
ッセラー、ラッセラー、ラッセ、ラッセ、ラッセラーと掛け
声をかけながら踊る。寒い中で踊ったら暖かくなった。「曳
手」と「跳人」の体験認定証をいただいて、結構な体験をさ
ていただいた。弘前の「ねぷた」は見るにとどめた。
日本で最大の縄文時代の遺跡が青森にある。三内丸山遺跡
という。平成5・6年に県の考古博物館兼県埋蔵文化財センタ
ーに勤務していて、青森国体のための競技場建設で埋蔵文化
財の試掘をしたら、日本一ということになって、保存のやむ
なきに至り、その発掘を視察に行ったことがあり、今回は約
20年ぶりの再訪となった。遺跡保存の状況を見させてもらった。
五所川原で昼食をとったお食事処の壁に吉幾三コレクショ
ン・ミュージアムが近くにあることを知って訪れた。親友の
建材屋の社長が好意で事務所の2階に設置している。1着50万
円というステージ衣装やレコード大賞等の表彰楯、好んで書
く個性的な書とか100人は入れるというステージが置かれていた。
五所川原には立佞武多(たちねぷた)がある。7階建てのビ
ルに相当する高さ22m幅6m重さ約18tの佞武多である。「立
佞武多の館」に3台格納されており、1年毎に1台づつ作り直す。
明るくどでかい佞武多は威圧感がある。この大きな佞武多は館
の横腹が動力で開くようになっていて、祭のとき曳き出される。
金木に太宰治の生家「斜陽館」がある。太宰治の生家は
大地主で明治40年に日本三大美林の檜を使って階下11
室278坪、2階8室116坪、付属建物や池を中心に庭園を
含めて680坪の豪邸である。太宰は11人兄妹の10番目6男であった。
農地解放で維持が困難になって、他人に売却、銀行や旅館
などを経て、旧金木町が買い取り、五所川原市に引き継が
れている。国指定の重要文化財になっている。
鰺ヶ沢の海の駅の2階に「鰺ヶ沢相撲館」があり、元小
結舞の海の記念館になっている。出身の大字の舞戸町の舞
と出羽の海の海から四股名が付けられた。青森出身の力士
は大勢いるが、元々ファンであり、旅ガイド誌に載ってい
たという次第である。170cm、96kgという体格で大型力士に
向かっていったので、「平成の牛若丸」「技のデパート」
という異名で親しまれた。さらに、「猫騙し」「後退する
立ち合い」「くるくる舞の海」「八艘跳び」など数多い逸
話が残っている。入門検査で頭にシリコンを埋めて身長の
不足を補ったというのも有名である。小錦戦で勝ったが小
錦に左膝に倒れ込まれ、靭帯損傷の大怪我がもとで低迷し、十両の水戸泉戦で再び
負傷して引退した。NHKで勝負の細部に亘る分かりやすい解説に好感をもっている。
青森滞在1日目は八甲田、十和田湖をまわり、曇り時々晴れ
とう状況であったが、2日目は予報どおり曇り時々雪という天
候でレンタカーのワイパーが随時動いていた。積もることはな
かったが、それでも午後遅くの五所川原では吹雪が強くなり、
鰺ヶ沢から弘前への夕方暗くなった道は白くなり、轍(わだち)
はくっきりと黒くついていた。雪はその程度で終わり、3日目
の弘前城では、道に雪はなく、草木の上や橋の上に雪があった。
弘前城は津軽藩主の居城である。青森県は明治維新時津軽藩と
その支藩的な黒石藩、岩手南部藩の支藩的な八戸藩と七戸藩、
会津松平氏を転封した斗南藩があったということであり、江戸
初期には津軽藩と南部藩とに分かれていたということであろう
か。弘前城は桜の名所であり、桜前線がゴールデンウィークの
頃ここに達して、全国の観光客が集まるといわれている。今回
は紅葉も落葉して裸の桜の木の下に雪が見えるという写真が撮
れた。天守閣をいつもテレビで見てどういう位置関係にあるの
か関心があった。江戸初期に5層の天守閣があったが、落雷で
焼失してしまい、再建はされずに、本丸辰巳櫓を改築したものである。
平成24年1月11日〜12日に琵琶湖畔から京都へ行ってきた。写真
は琵琶湖から流れ下る瀬田川畔の石山寺本堂の紫式部坐像である。
千年にわたる空前のロングセラーでかつ長編な「源氏物語」は当時
大変に高価な紙などを使い、それだけでも莫大な経費を要しており、
強力なスポンサーが無ければ到底完成しなかったといわれる。彰子
を入内させ天皇の外戚になり、強力な権威を確立するため、藤原道
長が並々ならぬ決意のもとに支援したといわれている。
京都の代表的な名所の清水寺である。平安遷都の少し前の西暦778
年奈良興福寺の僧賢心(延鎮)が夢のお告げにより北に向かい、現
在地で金色の水流を見つけて、その源にいた千手観音の化身と思わ
れる白衣の修行僧に後事を頼まれ、千手観音像を刻み安置したのに
始まる。坂上田村麻呂が東国の蝦夷征伐で毘沙門天と地蔵菩薩の化
身に加勢され帰還して、観音像の脇侍として両像を刻み安置したという。
国宝の本堂は徳川家光により1633年に寄進再建された。有名な「清水
の舞台」が正面(南面)左右に入母屋造りの翼廊として突出し、建物の
前半部分は山の斜面に迫り出すように建てられている。観音菩薩が補陀
洛山に現れるという観音経に基づいているという。清水の舞台から飛び
降りるというが、18〜19世紀にかけて200件余の飛び降りがあり、生存率
85.4%といい、明治5年に飛び降り禁止令が出て柵を張り下火になったという。
室町幕府8代将軍足利義政は就任当初は親裁権強化を図ったが、権力基盤が
脆弱であったため、大名などの後継争いに巻き込まれて、政治に意欲を
失い、応仁の乱を惹起させた。義政は文化的活動に拍車がかかり、正妻富
子とも袂を分かち、東山山荘の造営を始め、祖父義満が建てた金閣を模
した銀閣を建てた。銀閣に銀は付けられなかったといわれ、義政は銀閣
の完成を見ずに世を去った。これも権力基盤の脆弱が起因しているといわれる。
南禅寺の山門から入って次の法堂である。南禅寺は紅葉の名所であって、
その時期に行こうとしたことがあったが、車の渋滞で近寄ることができな
かった。山門は2層の大きな門であり、歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右
衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐くが、実際には五右衛門の
死後30年以上たってからの建築であるという。南禅寺界隈の湯豆腐は有名である。
琵琶湖から京都市へ琵琶湖疏水が設置されていて、南禅寺境内を貫通し
ている。第1次疏水が明治18年〜23年、第2疏水が明治41年〜43年に施工さ
れ、上水道、灌漑、工業用水、水力発電に利用されている。京都市民には
重要な水であるが、当初京都の景観を壊すという反対論がおこったが、現
在では逆に市内を流れる水路が訪れる人々に潤いをもたらしている。